油絵にも、無意識になっているかも知れないが、ルールはある。 ほとんどが四角いキャンバスに描くし、それは正方形ではない。
また、白黒で描く人はほとんどいない。それに、キャンバスは埋め尽くす。地肌を露出させることはほとんどない。
しかし、昔はいろいろ、価値(基準?)が変わっていた。 だいたいが、宗教的な絵から始まった様子。 それに、白黒写真ももちろんカラー写真もない時代に、資産階級の肖像画としての「絵描き」という需要はあった。 その年代の風俗(生活)を絵にするという考えは後になって出てきた。風景も比較的近年になって描かれるようになった。
油絵具をチュ-ブに入れる技術が確立されてから、屋外で写生する画家も多くなってきた。 人体の解剖学や遠近法を学ばなくても、メッシュを通して対象物を細かに見て書き写すという作業を繰り返せば不自然ではない遠近法に則った絵は描けたと思う。
今なら、写真に細かなメッシュをかけて、相似形のものをキャンバスに描き移すとか、スライド投影機で投影させながらなぞるという作業をすれば、迫真の「絵」が描けるだろう。
しかし、高画質・ワンタッチのオールカラーのカメラが出来て、PCで明るさや色の濃さまで手軽に調節・固定できるような時代に、写実的でリアルな絵に、どれほどの人が感動するだろうか?
また、金さえ出せば行って見れるような素晴らしい景色の、すぐさまカメラを取り出して、「記録に収めたくなるような」景色を絵にしたところで、どれだけ心がわくわくするだろうか?
そうして思いをめぐらしてみると、ゴッホのへたくそな絵が、どうして「へたくそ」で終わらずに、様々な人を感動させるかが分かるような気がする。
後世にゴッホが評価されたのは、オールカラーの細密な写真が、いとも簡単に記録できるようになってしまったことと無縁ではないような気がする。 もちろん音楽や小説やNEWSや、その他諸々と同じように、人の感性には個人差があるので、感じ方は千差万別だろうけど。
ヴラマンクの絵もいいところがあるけど、なにかあまりにも簡単に描きすぎているような気もして、自分のいいなと思う絵は、モネやゴッホやスザンヌ、佐伯祐三辺りで、止まってしまっている。こいうのも「個人差」なのだろうが。
また、白黒で描く人はほとんどいない。それに、キャンバスは埋め尽くす。地肌を露出させることはほとんどない。
しかし、昔はいろいろ、価値(基準?)が変わっていた。 だいたいが、宗教的な絵から始まった様子。 それに、白黒写真ももちろんカラー写真もない時代に、資産階級の肖像画としての「絵描き」という需要はあった。 その年代の風俗(生活)を絵にするという考えは後になって出てきた。風景も比較的近年になって描かれるようになった。
油絵具をチュ-ブに入れる技術が確立されてから、屋外で写生する画家も多くなってきた。 人体の解剖学や遠近法を学ばなくても、メッシュを通して対象物を細かに見て書き写すという作業を繰り返せば不自然ではない遠近法に則った絵は描けたと思う。
今なら、写真に細かなメッシュをかけて、相似形のものをキャンバスに描き移すとか、スライド投影機で投影させながらなぞるという作業をすれば、迫真の「絵」が描けるだろう。
しかし、高画質・ワンタッチのオールカラーのカメラが出来て、PCで明るさや色の濃さまで手軽に調節・固定できるような時代に、写実的でリアルな絵に、どれほどの人が感動するだろうか?
また、金さえ出せば行って見れるような素晴らしい景色の、すぐさまカメラを取り出して、「記録に収めたくなるような」景色を絵にしたところで、どれだけ心がわくわくするだろうか?
そうして思いをめぐらしてみると、ゴッホのへたくそな絵が、どうして「へたくそ」で終わらずに、様々な人を感動させるかが分かるような気がする。
後世にゴッホが評価されたのは、オールカラーの細密な写真が、いとも簡単に記録できるようになってしまったことと無縁ではないような気がする。 もちろん音楽や小説やNEWSや、その他諸々と同じように、人の感性には個人差があるので、感じ方は千差万別だろうけど。
ヴラマンクの絵もいいところがあるけど、なにかあまりにも簡単に描きすぎているような気もして、自分のいいなと思う絵は、モネやゴッホやスザンヌ、佐伯祐三辺りで、止まってしまっている。こいうのも「個人差」なのだろうが。
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