2014年12月11日木曜日

ゴッホに学ぶ・・・(2)

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27歳で画家として立ち、37歳でその生涯を閉じたゴッホ

彼は幸運にも、画商として働いていた時期があった。

1880年~1890年の画家時代の前、1869年~1876年、ゴッホは伯父が経営権の一翼を担っていた画商で勤務した。
オランダの大都市ハーグの支店やロンドン支店、パリの本店とかで見習いの使い走り(10代だからしょうがない)から始まり、もちろん絵を売る仕事まで一通りこなしていた。

絵に対する考え方、勤務態度は別にして、画商で扱う絵のほかに、美術館に飾られているレンブラントやフェルメールの絵に直接触れるなどして、当時の「絵」というものはどういうものか体感していた。
もちろん、感動し惹かれてもいた絵があった。

それは、油絵がほとんどであり、水彩画はほとんどなかったと言っていい。

また、彼の親戚にも画家がおり、絵と言うものがどのようなものか・・・なじみが深かった。

オランダ、フランス、イギリスといえば、当時から有名絵画が展示されている世界でも絶好のロケーションだった。
絵画の主流は、長い目で見れば、イタリアからオランダ、フランスに移動しており、その時代的な移動の中でも、パリという絶好のロケーションでも様々な絵画に触れることが出来たというのが、ゴッホという画家が育った一因でもあるだろう。

次に、ゴッホの弟テオが、10代~20代初期のゴッホと同様に、画商だったということ。
その画商であるテオ(画商だから、絵に対して敏感である)と、常に緊密な手紙のやりとりをしていたこと。
そのことが、二人のやり取りを通して、絵(売れる絵)と言うものはこういうものだ・・・という概念を育てたというところがあるだろう。

それは、ゴッホの何に影響を与えただろうか?
もちろんテーマ(画題)にも与えているだろうし、描き方、油絵なのか、水彩なのか、一気に描いたのか、何度も何度も手を入れ、手直しをし、時間をかけて日数をかけて描いたのか・・・そうじゃないのか、下絵は鉛筆で描いたのか、炭で描いたのか絵の具で描いたのか、あったのかなかったのか・・・
キャンバスの大きさはいかほどだったのか・・・

無意識でも影響を与えていたことと思う。


ゴーギャンがゴッホに会った時に、「こいつ、けっこうやるな!?」と思って欲しかった絵が、確かこの切り取った向日葵の絵だったと思う。
ゴッホもゴーギャンの絵を見て、惹かれるものがあり、互いに絵を交換した。
ゴッホはゴーギャンの絵が好きだったから、ゴーギャンに認められたことが凄くうれしかった。
弟テオには、ゴーギャンの絵を買いなさい・・と勧めている。
買うということは、もっと高く売るということ。
 
確かに今ではゴーギャンの絵は高額で取引されるようになってしまった。
ゴーギャンはさほどゴッホを高く買ってはいなかったが、今となっては巨匠と呼ばれる二人が、お互いに無名に近い状況で認め合っていたという処は凄い。
 
ゴッホは(今では)印象派の巨匠と呼ばれるモネが、まだ人気が出始める前から、弟テオに、彼の個展を開いたらいい(個展を開いて絵を売る)と助言しているくらいだからゴーギャンをもモネをも無名の時代から認めていたことになり、絵や芸術家を見る眼力が備わっていたことの証明になるだろう。
 
ただ、当時、ゴッホが接触したトゥールーズ=ロートレックやギヨマンやモネやセザンヌやピサロやシニャックやゴーギャンやベルナールやピーター・ラッセルは、今では皆、超有名人なので、本当にゴッホに眼力があったのか、たまたま実力のあった芸術家の中で自身も絵を描いていたというだけのことなのか分かりにくいところもある。
 
しかし、ゴッホがのちに、超有名になり、ゴッホと親交のあった画家ということで有名になった画家もいるわけだけれども、ゴッホに眼力がなかったわけではないだろう。
 
以上のようなことから学べることと言えば、「同業者の画家仲間という中で、揉まれるということは、自分の絵画に好影響を与える。」ということではないだろうか?
 
あの人の絵はこうだけれど、自分はこう描きたい・・・とか、ああいう絵の描き方は好ましいので真似てみようとか、俺は真似は嫌だから、違ったやり方でイカシタ絵を模索してみようとか・・・なんらかの方向性を、自分の描き方に与えるのではないだろうか?

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