2014年5月31日土曜日

ゴッホの絵の評価

1890年1月、評論家のアルベール・オーリエが「メルキュール・ド・フランス」紙1月号に
ゴッホを高く評価する評論を載せた。 

それから半年後、ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、ピストル自殺で1890年7月29日に死亡。

ゴッホの死後、弟のテドルス・ファン・ゴッホは画商のデュラン・リエルにゴッホの展覧会の開催を願ったが断わられる。
(デュラン・リエルは勤めていたグーヴィル商会<グーピル商会>の最大のライバルだった。)

ゴッホが死んでから半年後の1891年1月21日、弟テオも死亡。死因は梅毒。梅毒は罹患してから発病まで20年ほどかかる。病気の為精神が侵されて、妻や息子を殴ることもあったという。

1892年、テオの未亡人 ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル(1862-1925)の世話でアムステルダムでゴッホ展が開催された。

1893年、ベルナールが「メルキュール・ド・フランス」紙上でゴッホの書簡の一部を公表した。

1900年画商のアムブローズ・ヴォラールは医師レーから鶏小屋の穴ふさぎにしていた
ゴッホの絵を150フランで買った。


1901年3月、パリのラフィット街のベルネーム・ジューヌ画廊でゴッホの回顧展が開催される。
ヴラマンクが感銘を受ける。(「父よりもゴッホが好きだ。」とマチスに語った。)

 1901年、フーゴ・フォン・ホフマンスタール(1874-1929)はパリのラフィット街の画廊で初めてゴッホの作品と出会って衝撃を受けた。

(ゴッホ人気が急上昇してきたのは死後10年~15年経過した頃)

1905年から再びオランダのアムステルダム国立美術館で大回顧展が開かれてから再評価が成立してくる。

1914年、テオ宛のゴッホの書簡集が弟テオの未亡人“ヨー”の手によって刊行された。

一般の人にもゴッホが知られるようになった。


 

0 件のコメント: