2013年10月14日月曜日

ゴッホの自殺の動機

最近、ゴッホに関心が向いてしまって、亡くなった原因というか、銃で自傷したということになっていますが、何故だろうかというのを考えています。

様々な説がありますが、
一般的には、大きく分けて
①自殺説
②他殺説
があって、

自殺説では
①テオ(弟)からの支援が切れることへの不安説
②テオへ、これ以上迷惑をかけられないという思い

とか、あって、
他殺説では
①近所の若い男2人組に銃なんか危険だからと諭しているうちに暴発したとか、それをかばって警察の事情聴取には自分で撃ったとか言った。
②テオが撃った。(馬鹿げていますけど)

とかあるようです。ほかにもあります。

だいたいにして、銃も見つかっていなくて
①麦畑の害鳥を追い払うための猟銃説だったり
②短銃だったり・・・します。

最近、この人の説が真実に近いんじゃないかというようなサイトをみつけました。

それは、
計画的に自殺したというものです。

ゴッホの亡くなる前の年に1975年に亡くなったコローの絵が、画商の間で、高値で取引されるようになって、値段が急騰したのです。

そのことをゴッホが知っていて、更に、今まで随分と、弟テオにお世話になっていたものの、弟テオは画商の会社での上司との間で、今まで通りのアカデミックな絵か、印象派の絵を推すかでトラぶっていて、画廊をやめて独立するか(それには資金が必要)、悩んでいた。
弟は自分の子供に「フィンセント」という名前をつけるくらい兄である自分を信頼していてくれた。
ゴッホの絵の評価は、1890年の1月頃から、好意的な論評も出てきて、評価が上がってきていた。
ゴッホは亡くなる7月(27日に銃を撃って、29日に死亡)の直前、1890年の6月と7月に、絵を量産している。
・・・ということから、今まで自分を支援してきてくれた弟に報いるためと、自分が弟の重荷になっているということを一気に解決するために自殺したというものです。

今までの説と違うのは、自己中心的で、援助が打ち切られることに対する不安から・・・というのではなく、自己犠牲的な、弟の家族の生活の安定を願って、自分の絵の市場での価値を、コローのように死ぬことによって吊り上げるために、死んで恩返ししようとしたというものです。

なんとなく、この説が最も真実に近いような気がするのです。

亡くなった年の、6月と7月に描いた油絵は60枚を超えています。
55日間で65枚ほど。普通、そんなに油彩画を量産するモチベーションとか、なかなか生じるものではないでしょう?

それほどの凄まじい勢いで、厚塗りで絵の具をどんどん消費して、円熟期の絵を量産しました。

今ある援助資金を画材でどんどん減らしてしまったら絵の道を進んで行くというのが益々難しくなるとか思ったら、そんなに絵を描くものでしょうか。

大作も手掛けているので、創作意欲は相当ありました。
そして、その2か月間は精神的な病気の発作もなかった、順調な時期です。

なので、もしかして、その計画的な自殺を考えたのは、1890年の5月頃ということになるでしょうか。
その頃は、自分の絵も徐々に認められつつあるということは、ゴッホにも分かっていた時期です。

ゴッホの手紙にも、コローの事が出てくるのです。コローが死んだら絵の値段が吊り上がったということは書いてはありませんが。

そして、もしかして、弟テオは兄が死んだのは、自分たちに迷惑をかけないように、しかも(ゴッホの)絵の値段を吊り上げてまで報いたかったんだ・・・というのが分かってしまったのかも知れません。

弟のテオ、その奥さんのヨー、甥っ子のフィンセント、その大事な3人に恩返しをする手段が、自殺だったのでは?という感じもするのです。

結果的に弟テオは、半年後に亡くなるまで、兄の絵の展覧会を催したりしますが、病気で亡くなってしまって、その妻、ヨーがゴッホの絵を世に認めてもらおうと、努力をすることになるのです。

その後の評価は年を追うごとにどんどん吊り上がっていきました。

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