2014年3月19日水曜日

フランス革命史 Wikipediaより

フランス革命
バスティーユ牢獄襲撃
1789年-1794年。広義には1799年まで。ブルボン王朝及び貴族・聖職者による圧制に反発した民衆が
1789年7月14日にバスティーユ牢獄を襲撃する。
これを契機としてフランスの全土に騒乱が発生し、アンシャン・レジームは崩壊する。
これらの動きを受け、国民議会は封建的特権の廃止を宣言し、8月26日にフランス人権宣言を採択した。
しかし革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちは革命に干渉し、
これに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発する。

1792年4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発した。
マリー・アントワネットは敵方にフランス軍の作戦を漏らしていた。
プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織された義勇兵達がパリに集結した。

このときマルセイユの義勇兵が歌っていた歌『ラ・マルセイエーズ』は後のフランス国歌となった。パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因はルイ16世とマリー・アントワネットが敵と内通しているからだと考え、8月10日にテュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員タンプル塔に幽閉した(8月10日事件)。


第一共和政
1792年に8月10日事件で王政が廃止され、国民公会でルイ16世を処刑し、
国民公会、総裁政府、総領政府に分かれた共和制の成立を宣言する。
ジャコバン派のクーデターでジロンド派は公会から追放され、
貴族や教会から没収した土地の再分配を行う。
ロベスピエールは反革命派や王妃マリー・アントワネット、
王党派のダントンらを処刑し、恐怖政治を行う。
1794年にテルミドールのクーデターでロベスピエールが失脚し、民衆の手により処刑され、
ジャコバン派は退行しテルミドール派の総裁政府が成立する。
翌1795年、テルミドール派は失脚し、ポール・バラスによる政権が誕生する。
このバラス政権は、比較的長期政権であったが、対外戦争は好転せず(エジプト遠征)、
1799年、ブリュメールのクーデターによってナポレオン・ボナパルトが執政政府を樹立し独裁権を掌握した。




第一帝政
皇帝に即位したナポレオン・ボナパルト
1804年、ナポレオン1世が皇帝に即位。ナポレオンはアウステルリッツの戦い・トラファルガーの海戦・
ロシア遠征など、欧州諸国に数々の戦争を仕掛けた。
この一連の戦争をナポレオン戦争という。
しかしナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ1814年に退位する。
戦後処理のためにウィーン会議が開かれた。ウィーン会議は、
欧州を1792年以前の状況に戻す正統主義が主な内容で、フランスにブルボン家が王として復位することになった。
1815年、エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。
ナポレオン1世は再び退位した(百日天下)。


復古王政
ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。
ナポレオンが一旦エルバ島を脱出して復権すると亡命するが、ナポレオンの最終的失脚にともなって復位した。
このブルボン家の復古は、ウィーン議定書で諸外国によって承認された。
一般に保守反動体制とされるウィーン体制だが、かつてのアンシャン・レジームへ完全に回帰したわけではなかった。
復古王政下では制限選挙による立憲君主政が採られ、
法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由などが認められていた。
すなわち、身分制社会の枠組みは復活しなかった。
しかし、1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位し、
亡命貴族への補償を行うなどさらに反動政治を推し進めた。
王への反発が強まる中、アルジェリア出兵 (1830年)(英語版)で関心を対外関係に向けようとするが、
高まる自由主義運動に対して抑圧を図ると、
1830年に七月革命が勃発してシャルル10世は失脚した。
この革命の中心は立憲君主派であったために共和政には移行せず、
自由主義に理解を示すオルレアン家のルイ・フィリップが王として選ばれた。
アルジェリア侵略の結果、フランス領アルジェリアとして1834年に併合され、1962年の独立まで占領が続いた。


七月王政
1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となった。
ここからの彼の治世を7月王政と称する。
政治体制は立憲君主制が採られたが、極端な制限選挙により
一部の大ブルジョワジーしか政治参加が認められなかった。
フランス産業革命の勃興にともない形成された中小ブルジョワジーや労働者は
選挙法改正運動を展開したが、政府がその抑圧を図ったことなどから
二月革命が起こり、ルイ・フィリップは退位へ追い込まれた。
この二月革命がヨーロッパ全体へと波及、1848年革命と総称される変動を引き起こすことになった。


第二共和政
1848年の二月革命によって、ラマルティーヌが首班となり、アルベール、ルイ・ブランなどが入閣した臨時政府が成立する。
この段階ではラマルティーヌを中心とするブルジョワ共和派と、
ルイ・ブランなどに代表される社会主義者の連携が図られていた。
しかし、国立作業場など諸政策をめぐって対立が深まり、
1848年の4月総選挙において社会主義者が大敗したことを受けて、
国立作業場が閉鎖された。これに反発したパリの労働者が六月蜂起が起こしたが、
カヴェニャック将軍によって鎮圧された。
この一件は、これまで革命の担い手であったブルジョワジーに、社会主義革命への恐怖を抱かせた。
それゆえに彼らはこれ以上の改革を求めずに保守化し、市民革命の時代は幕を閉じた。
ブルジョワジーや農民の間には、政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を守る強力な指導者が待望されるようになった。
こうした中、新たに制定された第二共和政憲法に基づき、
1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。
その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1851年12月に国民投票により皇帝に即位する。


第二帝政
ナポレオン3世
皇帝に即位したナポレオン3世は、クリミア戦争・アロー戦争などあいつぐ外征の成功を通じて
自らの威光を高めた。その一方で、ジョルジュ・オスマンに大規模なパリ市の改造計画を推進させたり、
フランス各地を結ぶ鉄道網を整備するなど、大規模なインフラ整備を通じて工業化を推進した。
この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。
その統治の前半は、言論・出版の自由が制限されるなど権威主義的な統治体制であったが、
労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、工業化を推進させることで
新興のブルジョワジーの期待にも応えた。
こうして、フランス国民各層からの直接的な支持を基盤に、
議会を牽制しつつ政治運営を行った。
こうした統治方法には、のちの大衆民主主義にも通じる要素が見いだされる。

オスマンの都市改造計画
しかし、こうした彼の権力基盤は、華々しい成功を維持し続けることでしか支えることはできなかった。
1860年代になると、アメリカ大陸への影響力強化を図ったメキシコ出兵の失敗でその威光を低下させた。
1862年にはサイゴン条約でコーチシナ東部を獲得しベトナム進出を進めていくが、
このことも彼の威光回復にまではつながらなかった。
また、自由貿易体制をとったことで、イギリスからの工業製品流入にさらされ、
国内産業が打撃を受けていた。
こうした失政が続くと、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、
議会との妥協を迫られることが多くなった。
さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、
ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論が高揚すると、
対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた。この点で、
かつて自らを支えた世論がみずからの首をしめる結果になったといえる。
こうして1870年より普仏戦争が勃発したが、セダンで捕らえられ第二帝政は終わりを告げた。


第三共和政
対独ナショナリズムの高揚
官位剥奪式で剣を折られるドレフュス
1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和政が発足した。
普仏戦争の敗北にともなうアルザス・ロレーヌの喪失と、
50億フランという高額な賠償金は、フランスの対独ナショナリズムを高揚させた。
そのため、ブーランジェ事件やドレフュス事件を引き起こすことになった。
また小党分立によって政権は頻繁に交代し、
1875年から1940年の65年間に、87の内閣が成立している。
しかし、第二帝政期に急速にインフラが整備されたこともあり、
工業化は順調に進展した。
金融資本の形成も進み、広大な植民地やロシアなどへの投資を積極的に行った。
外交的には、ドイツ・ビスマルクの巧みな外交政策によって孤立を余儀なくされたが、
1887年にはアジアにフランス領インドシナ連邦を成立させた。
しかし、1890年のビスマルク引退にともなってヨーロッパ外交の枠組みが大きく変化し、
1891年(交渉終了は1894年)に成立した露仏同盟を皮切りに、各国と同盟関係を結んでいった。
1895年にはフランス領西アフリカが成立した。
1904年の英仏協商で妥協が成立した結果、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、
これに反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こした。
露仏同盟を基軸とする対独強硬策を主張していたテオフィル・デルカッセ外相は、
日露戦争でロシア帝国が忙殺される間隙を突かれる形となり、
6月になるとモーリス・ルーヴィエ(英語版)首相に解任され、
1906年のアルヘシラス会議に解決がゆだねられた。会議でアルヘシラス議定書が調印され、
フランスのモロッコ支配は現状維持とされた。
1911年に再びドイツ帝国がアガディール事件を起こし、フランスは、
フランス領コンゴ(英語版)(フランス領赤道アフリカ構成植民地の一つ)
に対する一部譲渡の要求を飲んだ(モロッコ事件)。


第一次世界大戦
1914年、第一次世界大戦が勃発するとフランスは連合国としてドイツと交戦した。
マルヌ会戦においてドイツ軍のシュリーフェン・プランを粉砕したフランス軍は、
その後長い塹壕戦に突入した。大戦中、戦場となったフランスの国土は荒廃した。
1916年のヴェルダンの戦いでは、同盟軍の攻勢を防ぐことに成功したが、
フランス軍の死傷者も甚大な数に上った。
いつ終わるか知らない戦争に嫌気が差した兵士達の間では、士気が低下し、
1917年のニヴェル攻勢における集団抗命に繋がる。
しかし最終的にはドイツ軍を防ぎきり、ドイツ革命によるドイツ崩壊まで持ちこたえた。



 

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